obscurelife’s blog

色々なことを脱線しながら気のままに記していきたいと思います。

旧古河庭園〜六義園

 

麻布十番から南北線でいける都内の庭園を探していた。

そこで見つけたのが西ヶ原駅にある旧古河庭園

こういう時は日常生活では行かないであろうエリアを探しがちである。

そういう時には、そのエリアの飲食店も探す。


今回は町中華の「百亀楼」に、と思ったら本日お休みとのこと。

 

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急遽近くの町中華である「ますや」に。

西ヶ原駅から上中里駅京浜東北線)へ。

調べると、上中里駅は都内でも1日あたりの乗降数がワースト2位で、その数は8,041人。ちなみにワースト1位は京葉線越中島駅で、その数は5,910人と単独トップ。

上中里越中島も、近くに西ヶ原や尾久、門前仲町や東京駅があるのが利用者数が少ない原因だろう。

反対に利用者数の多い1位は新宿駅で77万、次いで55万の池袋、46万の東京駅である。

話は脱線するが、1位は誰でも知っているが2位というのは意外と知られていない。

例えば、高い山でいうと「北岳3,193m」、長い川でいうと「利根川322km」、広い湖でいうと「霞ヶ浦168㎢」。1位を補足しておくと、富士山3,776m、信濃川367m、琵琶湖669㎢。2位の知名度は20%だ。2位じゃダメなんですか?ダメなんだ。


話は戻るが、そんな駅にある「ますや」。行ってみたらなんと満席。外で少し待っての入店。

ラーメン半チャーハンセットを頼んだ。ラーメンは海の家の醤油ラーメン、チャーハンはコショウ強めのパラパラ系だ。

 

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食べ終わりいざ旧古河庭園へ。

 

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秋バラの見頃ということで人で賑わっていた。

 

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古河庭園の成り立ちをざっとさらうと、元々は陸奥宗光の持ち物だったが、次男が古河家の養子となり、古河家の持ち物に。

その古河家というと、古河財閥の古河さん。

古河財閥の主な企業は、古河機械金属古河電工富士通横浜ゴム朝日生命みずほ銀行などが挙げられる。

 

ちなみに財閥というのは、1900年前後に使われ始めた造語。

三井三菱住友や安田を筆頭に、GHQ財閥解体の指令を受けた15大財閥に古河財閥も指定されている。旧古河庭園の所有者であった古河虎之助は麻布光林寺に埋葬されている。(家近い)

この財閥解体に伴い、庭園内の屋敷の所有が古河の取引先であった大谷米太郎にうつった。

この大谷米太郎は、30歳で富山から東京に。体躯の良さを生かして各界に入るも、巡業先で鉄鋼の魅力に取り憑かれ、経済界に。晩年まで活動し、ニューオータニの創設者。

この屋敷を美術館にすることを晩年に計画するも、実現を見ずして世を去った。

ちなみに、屋敷から近い庭園が洋式、もう一段下がったところにある庭園が和式と、斜面を活かした作りとなっている。

 

また、旧古河庭園内にはお茶室があり、裏千家のお茶が飲めた。

裏千家とは、茶道流派の一つ。裏があるということは表もある。共に千利休を祖とするが、表千家が本家、不審庵という茶室でそれを確立していった。その裏手にある今日庵で確立されていったのが裏千家。故にここで言う裏表は物理的なものである。

ちなみに違いは作法。

・お茶を点てる時に、表は薄茶で泡を立てない、裏は濃茶で泡立てる。

・表は侘び寂び伝統重視、裏は時代に合わせていく。

茶道の最大人口を誇るのは裏千家


旧古河庭園を見る中で、20分も歩けば六義園があることを知り向かってみた。

途中に長寿庵。色んなところにある屋号、発祥を知りたくなる。

元禄時代に京橋五郎兵衛町に「三河屋惣七」が創業以来、栗田作次郎、村奈嘉与吉を中心に順次のれんわけが行われ「采女会」「四之橋会」「十日会」「実成会」の4会派が生まれ、一時は関東一円に340店舗を数えるほどであった。

昭和25年に「長睦会」から「長寿会」と改名し、平成14年に法人組織化し「長寿庵協同組合」となり「長寿庵」の屋号は現在登録商標となっている。

長寿庵」という屋号は登録商標として管理されているが、同じ「長寿庵」という暖簾を掲げながらチェーン店などではなく、それぞれが独立し、規模も、商売のやり方、営業形態、メニューも統一せず営業している。

「それぞれの地域にあった形、地域密着の蕎麦屋を目指す」というコンセプトである。

とはいえ誰もが長寿庵の暖簾を掲げられるわけではなく、どの会派とも長寿庵で修業しそこの店主から認められなければのれん分けは許されない。


蕎麦御三家なるものがあるらしい。更科、薮、砂場。

更科は蕎麦のみの芯のみを使うので比較的白い、藪はつゆ辛めでちょっとしかつけない、砂場はonly from大阪。

 

六義園到着。

 

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六義園の成り立ちは、1702年に遡る。五代将軍綱吉の信任が厚かった川越藩主・柳沢吉保が和歌の趣味を基調として造った。なので、和歌山の和歌の浦をイメージした造りとなっている。

その後、岩崎彌太郎の別邸となった。岩崎は船を当てた後、造園に力を入れた。

入口に古地図あり。1693年と1860年のもの。比較して区画が変わらないベスト3は、皇居と紀伊藩と尾張藩の土地。紀伊は赤坂御所と迎賓館、尾張防衛省になっている。あとは内藤家の新宿御苑


旧古河庭園にも六義園にも染井門というのがあった。

染井とは巣鴨駒込の地名。江戸時代から植木屋が多く、ソメイヨシノはここが発祥。

ちなみに染井霊園には幣原喜重郎岩崎彌太郎岡倉天心高村光雲らの墓がある。

 

以上。